top of page
  • 執筆者の写真EXE Gakuenkai

良い塾の見つけ方2

更新日:1月16日

この道30年の塾講師が「僕が受験生の親なら」を語る



 日本語というものは難しいもので、「良い塾の見つけ方」といった場合、「良い塾」を見つけるポイントを示したいのか、塾の「良い(正しい)見つけ方」を指南したいのか、被修飾語のとらえ方によって、微妙にニュアンスが違ってくる。とは言え、よほどひねくれて読まない限り、前者、つまり”「良い塾」の見つけ方”ととらえるのが自然である。にもかかわらず、前回の拙ブログ「塾の良い見つけ方1」の内容は、むしろ後者の”塾の「良い見つけ方」”に内容が偏っていたのは、自覚しながら書いていたとはいえ、不本意であった。僕が本当に書きたかったのは、「良い塾」の見つけ方であって、前回「良い塾の見つけ方1」は、本稿の少し長めなプロローグ(序章)ととらえて頂きたい。

 

  「良い塾」とは

 では早速、「良い塾」とはどんな塾なのか。

 冒頭から身も蓋もないことを書くようで恐縮だが、「良い塾」とは、端的に言ってしまえば「良い講師がいる塾」である。

 

 昨今の教育産業界では、タブレット学習や動画視聴型授業など、先端技術を使った新たな学習ツールが次々生まれ、大層な人気を博しているのはご存じのとおりである。ついには「AI先生」まで誕生し、早晩ロボットが子供たちを相手に授業をする時代が到来するとまで言われている。けれども僕は、同じ教育産業の端くれにいながら、決して意地を張るわけではなく、今後は「人による授業」の重要性がより増してくると確信しているのだ。

ウサギ先生の授業
先生が教室にGROOVEを生み出すんだ!

 ここで、”どうしてロボットでなく人なのか”についての記述を始めると、また前回同様、「良い塾の見つけ方」という趣旨から外れてしまうので、その論考については、また別の機会に譲りたいと思う。ただし、一点だけ述べておくと、「人による授業」がより強く求められるのは、小・中学生であって、効率的な自学習の方法が確立されている高校生および大学受験生などについては、先進技術を使った教育システムの使用はむしろ有効に働く場合が多いと考えられる。つまり、本稿は“小・中学生対象の良い塾=良い塾講師のいる塾”という論旨で進めていきたいと思う。


 では、「良い塾講師」とはどんな講師なのか?

 親自身が授業に何回か参加して、確認できればいいのだが、時間的にも難しい。僕が受験生の親なら、何より次の2点について確認する


​① その講師が作成したオリジナルの教材・プリントを継続的に使用しているか
目先の成績向上だけではなく、子供の伸びしろや「志望校合格」に向けた中長期の展望を示す力“見通し力”を持っているか。

 については数回の無料体験授業でも確認できるはずだが、については1・2ヶ月通塾した後の父母面談などで確認するしかない。いずれにせよ、我が子の担当講師がに決定的に当てはまらないと感じたら、勇気を出して辞退・転塾・退塾することをお奨めする、ということである。


 “勇気を出して”とわざわざ書くのは、人間は、ある程度習慣化したものを変更しようと決断するときには、強靭な意思を必要とするからである。決断の成否に自信が持てないまま、決断を先送りすることによって、時間とお金を浪費してしまう愚を避けてほしいと考えるからである。


 なお本稿では、冗長な内容になるのを避けるため、についてのみ話を進めたいと思う。②の説明については、また別の機会にすることにしょう。



  オリジナル教材・オリジナルプリントの使用について

 「良い塾講師」の絶対条件は「熱意と探究心」である。ある程度能力があっても「熱意と探究心」に欠けるため、単に「教えるのが好きな人(教え好き)」へと堕落してしまう塾講師がごまんといる。そんな彼らは、概して尊大である。組織から提供された教材を使って、自分がしゃべりたいようにしゃべる。成績が上がらないのは、自分の指導が悪いのではなく、それを理解できない子供たちがダメなのだと考える。自分の指導法に疑問を抱くことはなく、使用教材に疑問を持っても、進言したり、自分でプリントを作ったりしようとは思わない。そこに「熱意と探究心」は無い。


 「熱意」とは、目の前の生徒の成績を何としても上げたい、絶対に志望校に合格させたい、そんな子供たちに対する熱い気持ちである。そして、それを実現するための弛みない(たゆみない)努力を惜しまぬ心、それが「探究心」である。常に自分の指導法の問題点を探り、改善していく。使用教材に不備を感じればプリントを作って補完する。あるいはメインの教材をも自分で作ってしまう。大変なことのようだが、塾講師としての「熱意と探求心」の具体的な表現方法としては、ごく自然なことと僕には感じる。そもそもすべての生徒にマッチする完璧な教材など存在しないのだから。


 つまり、熱意と探求心を持った「良い塾講師」と、単なる「教え好き」とを見分ける際、その塾講師がオリジナルの教材やプリントを作って使っているということが、一つの目安になると考えられる。だから、僕が受験生の親で塾選びをしているなら、体験受講の段階で、まずその使用教材やプリント類をチェックするだろう。注意したいのは、体験受講の場合は、おおむね使用教材のコピーが渡されるので、一見するとすべて自作のプリント教材のように見えなくもないことだ。よくわからない場合は、入塾前に「先生方のオリジナルのプリントや教材は使いますか」と尋ねてみるといいだろう。


教えるウサギ先生
これ、僕が作った教科書

もっとも、講師オリジナルのプリントや教材を使っているからと言って、それが生徒の成績アップに直結するとは限らない。僕は約30年前に塾講師を始め、やはり当初からワープロやコピーの切り貼りを駆使して(当時はWordもExcelもなかった)、オリジナルのプリントを作成していた。その一部がファイルとして残っているが、今見ると、恥ずかしいほど独り善がりで、わかりづらいプリント教材である。このプリントが当時の教え子たちの成績アップに寄与したとはとても考えにくい。


 けれども一方で、その紙面からは「何とか理解してもらいたい」という当時の自分の熱意が感じられる。僕は小中学生の教育で一番重要なことは熱意だと思っている。熱意は感染を生み出す。その感染力こそが、拙い僕のプリント教材を存分にカバーし、当時の生徒たちの成績をグングン押し上げてくれた、と信じたい(^^;)。



 いずれにせよ、講師がオリジナル教材やプリントを作成し使用していることは、その講師が一定の「熱意」をもって授業に臨んでいることの証しであり、塾選びの時のひとつの指標となり得る。逆に言えば、所属する塾から指定された教材だけを使って淡々と授業を進める講師に教わりながら、なかなか成績が向上しない状態ならば、その講師の「熱意と探究心」それから技量を大いに疑うべきだし、時間をおかずに転塾を検討するべき段階かも知れないということだ。



  「帯に短したすきに長し」の塾用教材について

 “所属する塾から指定された教材”とは、大きな塾であればその塾オリジナルの教材があり、その他多くの中小規模の塾では専門の出版社が作成した「塾用教材(書店では扱わない)」を選定し、それぞれ入塾時に実費で販売している。大手塾にとってオリジナル教材の販売は、受講料に次ぐ売り上げの大きな柱であり、あれやこれやと積極的に販売するし、原則として所属する講師にはその教材を使って授業をすることが求められる。


 それら、大手塾のオリジナル教材と中小規模塾が使用する塾用教材について、それぞれがその特徴と優位性を謳ってはいるものの、僕の感覚で率直に言えば、どれもこれも「一長一短」「帯に短し…」という判定しかできない。前述のとおり、そもそもすべての生徒にマッチする完璧な教材など存在しないのだから、当然のことともいえるが、思慮なく盲目的に、あるいは妥協して、特定の教材だけを使って授業をすることは、やはり生徒の成績向上を第一義に考えていない証であり、その講師の無能あるいは怠慢を示すものである。


 ちなみに僕の数学の授業では塾用教材を2冊、月ごとに配布するオリジナル教材を1冊、更に適宜プリントを配布して、目の前にいる生徒の学力や理解度に合わせて使い分けている。

 オリジナル教材を月ごとに配布するのは、生徒の学力は月単位でも変化するし、中学校のカリキュラムや進度を逐一確認して、定期試験で最大限の力が発揮できるようにするためであり、どうしも毎年・毎月少しずつ手を加えざるを得ないのである。手間のかかる仕事であるが、自分の仕事の一番の肝であると考えて取り組んでいる。

学援会のオリジナル教材
学援会のオリジナル教材


  四谷大塚の『予習シリーズ』について

 そんな「帯に短したすきに長し」の塾用教材ではあるが、ひとつだけ別格のものがある。四谷大塚の『予習シリーズ』である。昭和から平成の初頭までは中学受験のバイブル的存在であり、多くの私立中学が『予習シリーズ』をベースにして入試問題を作っていたとも考えられる。

 やがて他の大手塾の台頭や、私立中学や都立中高一貫校が”予習シリーズだけの学習では対応できない問題”を作る傾向が強くなったため、その絶対的な地位は揺らいでしまった感もあるが、あれこれと他の大手塾の教材や塾用教材を見るにつけ、やはり今でも、中学受験においては他の追随を許さない教材であると僕は思っている。


 僕は教材を作る際に最も重要なのは“各単元の並び順”だと思っている。単元の並び順の妙が、子供たちの潜在能力を最大限引き出すことがあるし、逆に各単元の連関性を無視して、無目的に配置されたテキストをダラダラ教えていると、子供たちの学力がちっとも伸びなかったりする。

四谷大塚の予習シリーズ
四谷大塚の「予習シリーズ」

 『予習シリーズ』は、有名な“らせん階段方式”で、一つの単元が繰り返し少しずつレベルを上げながら配置されており、子供が受験勉強を進めるうちに少しずつ理解が深まっていく構成になっており、その点が、他の教材と比べて圧倒的に優れていると感じるところである。


 その他、「予習シリーズに準拠した副教材が多数用意されている」、「理科・社会の予習シリーズは読み物としても秀逸である」など、いくつもの優位性があげられるので、直近の改訂で大幅に難化したものの、僕の塾では、開設時から今日まで、予習シリーズおよびその副教材を中学受験クラスのテキストとして採用し続けている(ただし、四谷大塚のカリキュラムが指定するペースに合わせることなく、あくまで目の前にいる生徒たちの定着度や学力に合わせて授業を進めている)。


 前半で“講師オリジナルの教材を作成し使用することが、良い塾講師であることのひとつの条件”といいながら、予習シリーズをメインテキストとして使用し、副教材も四谷大塚の教材だけを使用しているのは如何なものかと言われそうだが、こと中学受験の教材については完全に“白旗”なのである。

 負け惜しみを承知で言えば、僕が10人いれば予習シリーズに対抗できる教材を作れると思っているが、現実的にはその資金力と、人材と、情報量に僕ひとりで太刀打ちできるわけもなく、降参するしかないのだ。


  子供に中学受験をさせるか否か

 中学受験について、子供に中学受験をさせること自体を迷っている方には、僕はいつも「経済的に問題がないのであれば、とりあえず受験はじめてみる」ことを奨めている。理由は、脳の受容力の高い少年期に、予習シリーズのような高度な内容の学習に取り組むことは、のちのちの人生の大きな後ろ盾となる自頭(じあたま)の強化に有効だからである。


 「私立や都立の中高一貫校に行くと、普通の公立校に行くより○○○」

と中学受験に合格した後のいい事・悪い事については、あまたある受験情報誌にあれこれ列挙されているので、それらを参考にするのがいいが、僕としては、中学受験をする最大のメリットは「少年期における自頭の強化および知識の蓄積」であると思っている。


 中学受験について細かな記述はまた別の機会に譲るが、中学受験に臨む親御さんの姿勢としての大切なポイントだけ述べておく。大切なのは、以下の2点である


A.「家族が一体となって合格を勝ち取るんだ」という雰囲気を家庭内で醸成すること
B.「志望校への合格はあくまで副次的なものであり、中学受験に取り組む第一義は”少年期における自頭の強化と知識の蓄積”である」という認識を常に持つこと

 比率としては、常にA:B=7:3くらいでいいと思うが、小6の2学期にもなると、Bがどこかに吹き飛んでしまって、「合格しないとこの世の終わり」くらいの精神状態になってしまう親御さんもいたりする。そうなると、合格できればいいが、そうでなかった場合、子供が傷つくだけでなく、親子間に亀裂が入ってしまうことすらある。2月1日には笑顔で送り出し、発表時には合否にかかわらず、笑顔でよく頑張ったと迎えてあげる、抱きしめてあげる、それが受験生の親としての使命である。そのためにもBの認識は不可欠なのである。


 つまり、子供の自頭を鍛え、少年期にできるだけ多くの知識を蓄えておくために、僕が中学受験生の親ならば、四谷大塚の予習シリーズをメインテキストとして使用している塾を選びたい、ということになる。もちろん良い教材を使ってもいても、それを使って指導する講師の技量が伴わなければ意味がないのであって、それだけで入塾を決めるわけにはいかないが、塾選びのひとつの目安にはなろう。



  日本版DBSとあの事件

 このあたりまでを8月の半ばくらいまでに書いたが、ちょうどのそのときに「四谷大塚の講師による教え子の盗撮・逮捕」のニュースが飛び込んできた。その後も日を追うごとに被害者は増え、同業者として続報を聞くにつけ暗澹とさせられた。何より被害に遭われたお子さんや親御さんの気持ちを想うと胸が痛い。再び集中して受験勉強に取り組めるようになってくれればいいが……どこまでも罪深い話だ。


 それより前の7月には『日本版DBS』のニュースがあった。いわく「子どもとかかわる仕事に就く際に、性犯罪歴がないことの証明を求める仕組み「日本版DBS」について、政府は学校や保育所、幼稚園で働くすべての人を対象に含める方向で検討している。ただ、学習塾やスポーツクラブは対象外となる見込みといい、専門家はDBSの導入は評価しつつも、塾講師やインストラクターらによる加害行為は少なくない。可能な限り対象を広げるべきだ、と強く疑問を投げかけている。」とのこと。


 もとより、僕は「予習シリーズ」に脱帽したのであって、四谷大塚の講師や彼らの授業を称賛したわけではない。四谷大塚の講師たちの人となりなど知る由もないが、一般に「教師は聖人ではない」のと同様に、あるいはそれ以上に、塾の講師は聖人でもなければ人格者でもない、ことの方が多いと僕は思っている。

 四谷大塚に限らず、犯罪者まがいの人間が講師として紛れ込んでいる可能性は、学校の教員以上に高いと思うが、どうして「日本版DBS」を塾の講師にも適用しないのか、全く理解できない。


 予習シリーズの話で本稿を締めくくるつもりであったが、上記のニュースを受けて、塾の講師について、もう少し書くことにした。ただし冗長であることは否めない。だから以下は、余話として読んでくれればいいと思っている。



  塾講師なんて有象無象の集まり

 「でもしか先生」という言葉をご存じだろうか。敗戦後のベビーブームの際、日本各地において学校の教師が不足したため、教師の採用枠が急増し、教師の志願者のほとんどが容易に就職できた。そんな中、他にやりたい仕事がないから「先生でもやろう」あるいは「先生にしかなれない」などといった消極的な動機から教師の職に就いた、無気力で不熱心な教師に対する蔑称のことである。


 それと同じように、1980年代後半のバブル崩壊前後から2000年代前半まで、文系大卒者を中心に多くの「でもしか塾講師」が誕生した、と僕は考えている。求人市場が、バブル期の売り手市場から90年代の就職氷河期へと急降下するなか、安定を求めた求職者の多くが教員採用試験を受験し、その倍率は10倍を超えた。それにより「でもしか先生」はすっかり姿を消し、“塾講師でもやるか”という「でもしか塾講師」が大量発生した、という見立てだ。統計的データは持っていないし、調べるつもりもないが、他ならぬ自分自身がその一人なのだから、肌感覚として間違いないと思っている。


 もっとも、僕としては“塾講師でもやるか”ではなく、それなりのビジョン(かっこつけなさんな)をもって就職したつもりだし、“無気力で不熱心”でもなかったと思っている。むしろ情熱的に取り組みすぎて、ビジョンを見失ってしまったとすら思っている。とは言え、傍(はた)から見れば「でもしか」に違いは無く、20代の僕は果てしなく野放図であったことは否定できない事実でもあるから、「でもしか塾講師」の誹り(そしり)は甘受するしかない、と思っている。


 言いたいことがぼやける前に、明確にしておくと、要するに、塾講師なんて僕も含めて有象無象の集まりなんだ、ということである。もちろん中には、熱意と探究心にあふれる実力者がいて、ぼくが就職した塾でもそういう人たちがグイグイ生徒たちを引っ張っていた。でも一方で、「どうしてこんな人が」というような人物も、うじゃうじゃいた。僕が就職した塾には100人弱の講師がいたが、少なく見ても7割は「単に教えるのが好きなおっさんやお兄さん(以後「教え好き」)」であったろう。思えば女性がほとんどいなかったのも当時の特徴である。彼らは、さしたる努力もせず職に就き、熱意もないのに「○○先生」などと呼ばれて悦に入り、授業で失敗しないように日々予習にふけっている、それだけの男たちである。


 能力の問題ではない。「教え好き」の人々も、みな大卒である。与えられた教材の内容を普通に教えることはできる。けれども、教えるだけならば、父親や母親にだってできる。誰もが、かつて勉強した内容だし、基本的な事は概ね教科書に書かれているのだから。


 それでも親たちは、忙しいから、子供の教科書を開いて思い出すだけの時間がないから、子供を塾に行かせる。塾では「教え好き」にとっては仕事だから、時間をかけて教科書を予習する。そして教える。親との違いは、予習に時間をかけたかどうか、それだけの違いである。


 仕方ないとも思うし、「そんなもんだよ」と妥協する向きもあるだろう。しかし、僕が親だったら、その程度の講師(彼を雇っている塾)に、年間何十万(塾によっては百万円以上)を支払う気には到底なれない。通塾のメリットのひとつは、否が応でも子供に勉強のペースを作らせることであるが、そこに価値を置いたとしてもせいぜい月1万円くらいが妥当だろう。


 初めは皆「でもしか塾講師」でも、一部の熱意と探究心の高い者は「良い塾講師」となり、残りの大部分は単なる「教え好き」へと堕していく。「教え好き」ならまだ救われるが、僕が親なら、自分の子供と接してほしくないと思えるような、犯罪者まがいの人物もチラホラいた。


  塾に子供を通わせる親として

 では、受講料を支払う親として、「良い塾講師」であるかどうかを、あるいは尊大で怠惰なだけの「教え好き」や危険人物であるかどうかを、どこで判断したらよいのか。


 それは存外、難しいことである。その講師の働きぶりは、同じ職場の同僚か、直接教わっている生徒にしかわからない。親が1度や2度見学したところで、はっきりとはわからない。面談で担当講師からじっくり話を聞くことはとても大切であるが、面談時に親を納得させるだけの手練手管は、塾内でマニュアル化されていたりもする。ましてや、講師の犯罪歴とか性的嗜好をリサーチするなど、個人では到底無理である(だから日本版DBSの適用を強く訴えるのだ)。


 その講師が担当した生徒の合格実績も気になるところではあるが、実は、一定レベルの学力を持ち、学習習慣の備わった小学6年生や中学3年生を、上位校に合格させることは容易い(たやすい)ことなのである。僕は以前いた塾で、小6や中3の最上位クラスも担当したが、他のどのクラスを担当するよりも楽であった。だって「やるべきこと」や「解くべき問題」を指示すれば、自分でどんどん進めてくれるのだから。もちろん「やるべきこと」や「解くべき問題」の指示には、講師の技量や経験が不可欠だが、ベテラン講師であれば、それに費やすエネルギーは大したものではない。


 結局のところ、その塾が、あるいは担当講師が、自分の子供を預けるだけの価値があるのかどうかを判断するために、親としてでき得ることは、子供の通塾により深くかかわること、それしかない。


 そして、“かかわること”の中心は会話と観察である。

「高いお金払ってるんだから、頑張ってよ」

だけでは駄目である。成績や志望校の話、授業や講師の様子、他の生徒の様子など、子供が嫌がらない程度に意識して話題にするべきである。本稿の内容に即していえば四谷大塚の事件などもあるので、講師のとの関係性や隠し事が無いかなども、折に触れて細かく確認した方が良いだろう。


 そのとき「偏差値を10ポイント上げた」「内申を3上げた」とか数値ばかりではなく、数値が上がらなかったとしても「やる気のない息子が少しずつ机に向かうようになった」とか、「テストの点数を気にするようになった」など、入塾後の子供の少しの変化をも見逃さないように、じっくりと観察することが大切だ(それが「良い塾の見つけ方1」の内容だった)。


 そんな子供との会話や、学習生活の観察の中から、子供の意識や取り組みの変化、担当講師の熱意などが少しずつでも感じられれば、「良い塾・良い講師」と巡り合えた可能性があると考えていいだろう。もちろんその後も、会話と観察を継続しなければならないことは言うまでもない。また、“熱意”の確認には、本稿前半部の「オリジナル教材の使用」も一つの目安として意識すべきである。


  塾講師という仕事

 自分は若き日に教員志望であったためか、塾講師に対しては「犯罪者まがいの人物もチラホラいた」などと、どうしても蔑んだ物言いが多くなってしまう。しかし、自分とて紛れもない塾講師なのであって、その物言いは自虐に他ならない。そんな自分と、同業者たちの名誉のために、最後にひとつだけ言っておこう。

ゴールはもうすぐだ!がんばろう!

 塾講師は、学校の教師に比べて“教える”ということに特化された仕事であって、そのほとんどの時間を“教える”ということに注力できるのである。したがって、その仕事に情熱と探究心を持って取り組めば、学校の教師をも容易に凌ぐ“教科教育のプロフェッショナル”となり得るのである。


 そして、“教える”ことの中には「成績を上げる」「志望校に合格させる」ことも含まれるのだから、無闇に尊大になることなく、常に目の前の生徒と歩調を合わせて、共に歩みを進めていけば、彼らに「学ぶことの喜び」や「やり遂げることの大切さ」をより深く味わってもらうことができる、そんな仕事でもある。




Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page