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  • 執筆者の写真EXE Gakuenkai

良い塾の見つけ方3 「個別か、集団か?」

更新日:1月18日

この道30年の塾講師が「僕が受験生の親なら」を語る

 


良い塾の見つけ方イラスト

 今回のテーマは、塾選びの際の大きなポイントである「集団指導がいいのか、個別指導がいいのか」です。


 テーマがはっきりしているので、いきなり結論から述べます。

 僕が受験生の親なら、一も二もなく集団指導を選びます。

 

集団授業を選ぶ理由は以下の通りです。

集団授業を選ぶ理由

僕のアルバイト

 僕は、今から30数年前、大学生の時に個別指導塾のアルバイトをしていました。初めて僕が担当した生徒は、中学のサッカー部に所属する男の子でした。当時僕はラグビーをしてたので、授業の初めはまず部活談議に花を咲かせて、あまり長くなると塾長から注意を受けたりしながら、兄弟のような感覚で楽しく英語を教えていました。


 週1回の授業でしたが、塾の決まりで必ず宿題は出していました。けれどもそのサッカー少年は「部活が忙しかった」などの理由でだんだんと宿題への取り組みが緩慢になっていきました。

 もちろん注意はしますが、彼との関係がぎくしゃくするのも嫌だったし、どう注意してよいのかもわからなかったので、授業は、まず前回の宿題を一緒に解くことからはじめていました。そのため、なかなか次の単元に進むことができず、教科指導という面では常に歯がゆさを感じながら働いていた記憶です。


 アルバイトの同僚たちは、皆「そんなもんだよ」と割り切っていました。担当する生徒が宿題を忘れると「じゃあ今やって」と指示を出し、その時間は自分たちの「自由時間」としてむしろ歓迎していたほどです。


 結局その中学生は受験前に別の集団塾に転塾して行ったと記憶していますが、最後に「わかり易かった」「楽しかった」と彼が言ってくれたことははっきりと覚えています。当時の僕はそれで満足だったのですが、今思えば、「楽しかった」のは塾通いが完全に「彼のペース」だったからで、「わかり易かった」のは同じところを毎回繰り返して教わったからではなかったかと、彼には申し訳ないけれど、想像しています。



「自分のペース」という落とし穴

 個別指導塾や、今人気のタブレット学習の共通の宣伝文句は「自分のペースで勉強できる」ですね。けれどもこの「自分のペース」という常套句には大きな落とし穴が潜んでいるのです。僕の担当したサッカー少年のように、「自分のペース」はやがて「自分に都合のいいペース」に変わっていってしまうからです。


 高校生や大学受験生ならまだしも、いったいどれだけの小中学生が、どうにか手が届く高みに目標を設定し、そこに向けて自分の欲望に抗った(あらがった)抑制的な「自分のペース」を設定して、それを実践できるのでしょうか。


 「水は低きに流れ、人は易きに流れる」という言葉が示す通り、老若男女を問わず、人間は無意識に安易な(楽な)選択をしてしまうものです。ましてや小中学生が、目の前にある様々な誘惑に蓋(ふた)をして、一心不乱に勉強に集中するのは至難の業でしょう。想定した「自分のペース」は、いつしか「自分にとって楽なペース」になってしまうのは仕方のないことですし、大人がそれをとがめる資格はありませんよね。


 親としてできることは、子供が主張する子供にとっての「自分のペース」を否定することです。子供だからではなく、大人でも誘惑を断ち切ることは難しいこと、受験という未経験の目標に向かって、「自分のペース」なるものがいかに荒唐無稽であるかを、優しく諭してあげることでしょう。



学習の主導権は誰の手に

 僕の経験したアルバイトのように、個別指導の場合、担当講師が指導的立場から宿題を出しても、その生徒が宿題を忘れてしまえば、授業はまずその場で宿題を解かせたり、前回の内容をはじめから教え直したりします。

 また、「この問題がわかりません」あるいは「現在完了を教えて下さい」と生徒がリクエストすれば、担当講師は生徒が理解するまでとことん時間をかけて教えてくれるでしょう。

 それこそが個別指導のメリットであり、ウリであるからです。つまり個別指導の場合は、担当講師ではなく、生徒自身が実質的に授業の主導権を握っていると言えます。


 それに対して、集団授業では授業の主導権は完全に教師が握っています。生徒一人一人の都合や希望に応えていては、授業が滞ってしまうからです。

 たとえ何人かの生徒が宿題を忘れても、授業はお構いなしに進んでいきます。また、誤解を恐れず言うと、集団授業では生徒たちの理解が不完全であっても、かまわず次の単元に進んでしまうのが普通です。

 「それで大丈夫なのか?」「だから個別指導の方がいい」という声が聞こえてきそうですが、それこそが僕が「集団授業の方が良い」という理由のひとつなのです。



受験は「初めてのフルマラソン」と同じ

 2011年、僕は、怠惰な自分に鞭打つため『東京マラソン』にチャレンジして、四苦八苦しましたが、なんとか無事4時間20分で完走しました。

 初めのうちは練習の仕方がまったくわからず、ただ距離を伸ばさなければと思い、フォームも、ラップも、リカバリーも、何も考えずに闇雲に走り続けていました。そのうちに当然の結果として膝を痛めてしまい、約1か月何もできないまま無為に過ごすという憂き目にあいました。

 ただし、その期間、あの高橋尚子選手を育てた小出監督の本など、マラソン関連の本を読み漁って、それまでの自分のいい加減な練習を猛省し、走力のピークを本番に持っていくための練習方法を知識としてしっかり習得できたことが、本番で完走できたことの大きな要因であったと確信しています。


 閑話休題、受験もフルマラソンへのチャレンジとよく似ています。つまり単純に「がんばる」だけでは、届くはずの目標にも届かないまま終わってしまう可能性があるのです。

 「何を、いつまでに、どのレベルまで」学習すべきかを常に意識しながら、ときに負荷をかけて、ときに休息をとり、学力のピークをきっちり小6・中3の2月に持っていく計画的な学習が不可欠です。



必要なのは「受験のペースメーカー」

 けれども、受験を経験したことのない小中学生が、志望校の合格に向けて「計画的な学習」を進めることは、どんなに成績の良い子でも、またその子がどんなにストイックな学習生活を送ったとしても、非常に難しいことです。


 そこで目標達成のためには、どうしても学習のペースメーカーが必要となります。そのペースメーカーは受験を熟知した塾の講師であり、小中学生はその指示のもと、計画的に学習を進めていくことが、目標達成のためには最も有効なのです。


 前述の通り、集団授業の講師は「中2の段階ではここまで理解していれば十分」と理解が完璧でなくとも授業を先に進めてしまうのが普通ですが、それはマラソンのペースメーカーが、前に出たがる選手を抑えて理想的なペースを守ろうとするのと同じです。受験の指導者には、その先の展望がしっかり見えているからです。


 また逆に「夏期講習は少し難度を上げて、思考力を鍛えておこう」とか、「12月は長文読解力の養成のためにタイムトライアルを繰り返そう」とか、折を見て生徒たちに負荷をかけるなどして、硬軟織り交ぜながら、狙い通り学力のピークを小6・中3の2月に持って行くのが受験指導者の技術(ウデ)というものです。

 

 このとき当然のことながら、授業の主導権は受験のペースメーカーつまり塾教師が握っていることになります。

 一部の生徒の宿題忘れに対応していたり、授業中にすべての生徒のリクエストに応えていると、受験に向かっての理想的なペースが乱れてしまうからです。

 

 一方、実質的に授業の主導権を生徒が握っている個別指導では、その理想的なペースを維持するのが難しいのは言うまでもないことです。


(念のため付記しておくと、僕の塾では、生徒たちの質問やリクエストに授業中に対応できない場合は、授業外で個別に対応していますし、他の集団授業を実施する塾でも同様であると思います。)



個別指導の講師の実力

 上記の通り、「個別指導では実質的に授業の主導権を生徒が握ることになるので、受験への対応が難しい」ということになりますが、もし個別指導の担当教師が受験について熟知しており、また、生徒のモチベーションを存分に喚起するような指導力に長けた先生なら、受験への対応も可能かも知れません。


 けれども、そういう個別指導の先生に巡り合えることは極めて稀有なことと考えるべきです。宝くじの高額当選をするくらいの確率でしょう。


 理由は簡単で、それほどの実力を持った教師ならば、塾経営者はすぐに集団授業の担当に任命するからです。費用対効果(コストパフォーマンス)の追求はいつの世でも経営の常道であって、実力のある先生を集団授業で使うことは、受験結果を伸ばすだけでなく、宣伝効果も何倍も大きくなる可能性があるのです。

 個別指導の単価を上げたところで、集団授業に有力な講師を充てることのコスパに遠く及ばないのは自明です。


 果たして、個別指導の担当者の多くは、以前は集団授業を担当していたけれど実力が及ばずに個別指導に回された人や、同じような理由で他塾から転職してきた人、あるいは大学生のアルバイトということになります。


 若くて優しい大学生のお兄さんやお姉さんに勉強を教えてもらうことが大好きな生徒もたくさんいますね。僕も憧れました。人生のひとつの経験としては、何か得るものがあるかも知れませんが、こと「受験に向けて総合的な学力を向上させていくこと」を目標とした場合は、残念ながら非常に心許無いですね。


 もっとも、前回の『良い塾の見つけ方2』で記述した通り、集団授業講師の中にもろくでもない人物が含まれていることはありますので、親としては常に担当している講師の実力や人となりに対して、アンテナを張っておく必要があります。



受講科目数について

 個別指導の受講者の多くは、単科(1教科)または2科目の受講を選択しますが、そのことが受験勉強全体のバランスを損ない、望ましい結果が得られないことがよくあります。


 「数学が苦手だからそちら(個別指導塾の数学単科)に通って、数学の点数は上がったけれど、得意であったはずの国語の点数が下がって、内申は上がらなかった」

 というのは、僕のアルバイト先でよく聞いた、ありがちなパターンです。


 受験の結果を左右するのは、最終的には全教科にわたる総合力ですから、受験科目すべてについて、偏りなくバランスの取れた学習を進めていくことが大切です。


 ですから、個別指導であっても、できる限り多くの科目を継続的に学習していくことが理想ですが、単価が高いうえに、講師の技量が劣る可能性の高いので、僕が受験生の親ならば、やはり集団授業の塾を選択することになります。



「競争」の否定

 小中学生が集団授業よりも個別指導を志向する一番の理由は「他の人と比べられたくない」であり、言い換えると「間違えたりして恥をかきたくない」ということでしょう。


 とはいえ、受験はとどのつまり他者との競走ですから、いつまでもそれに対峙せず「井の中の蛙」でいても、望ましい結果は得られないということは、大人なら誰しもわかっています。


 だからと言って「集団授業でないと競争心が芽生えない、競争力が身につかない」という意見には、僕は与(くみ)しません。

 

 確かに受験はある種の競争ですが、ひとつの塾の多くても20人程度のクラスの中で競争をしているわけではありません。自分の志望校を目指して、その学校に求められる学力をつけるべく努力するのが受験勉強ですから、ライバルはその学校の志望者たちです。

 

 そして、そのまだ見ぬライバルたちを意識しながら、コツコツと学習を継続しなければいけないのですから、小中学生にとっては学習意欲を維持するのがなかなか難しいですね。


 その際、塾によっては塾内での競争を必要以上に煽る(あおる)ことによって生徒たちの学習意欲を喚起しようとします。けれども、それは長期的視点に欠けており、生徒各自の目標や可能性を度外視した、短絡的な手段だと僕には感じます。


 僕はいつも生徒たちに

「このクラスの中で競争しているのではない、昨日の自分より少しでもできるようになることが目標だよ。その積み重ねが成績のアップにつながるし、やがて志望校への合格へと結びつくんだ。」

 と、口が酸っぱくなるくらい何度も伝えています。

 

 そもそも、大人がわざわざ競争心を煽らなくとも、子供が2人以上集まれば、そこには大なり小なり「競争心」が生まれます。


 そのとき「負けず嫌い」な性格は受験に有効に働く場合もありますが、それが過度に表出すると、不正を働いたり、宿題はすべて親に聞いたり、と本末転倒な癖がついてしまうことがあります。

隣にいる人がライバルなんかじゃない、ごまかしたくなる自分、怠けてしまう自分、逃げたくなる自分、そんな自分自身がライバルなんだ。


 自信のない子は、蚊の鳴くような声で答えて、ノートを手で隠します。

間違えは恥ずかしいことではない。間違えを放置することが一番恥ずかしいことだからね。どうして間違えたのか、どうしたら次間違わないのか、それを考えることを学習というんだよ。


 何度も何度も言い続けていると、やがてみんなわかってくれます。



「集団」であることの効用

 「集団クラス内の競争を否定するなら、個別指導でもいいじゃないか」と言われそうですが、それ以上に集団授業には「集団」であることの効用があります。


 例えば、最初のうちは宿題を忘れがちだった生徒たちも、ときに注意を受けながら、ときに恥をかきながら、だんだんと宿題に取り組むようになってきます。これは、集団授業の中で他の生徒たちの様子を見るうちに、無意識ながら「郷に入れば郷に従え」的な感覚に背中を押された結果であり、「集団」であることの効用といえるでしょう。


「苦手だった数学に力を入れたら、得意だったはずの国語の点数が下がった」という生徒も、「国語が得意」と感じていたのは、苦手な数学よりも少し点数が良かったというだけで、実は国語も受験の標準には届いていないということに気づくかもしれません。

 

 集団授業の中で同級生の取り組みや、同級生の中での自分の位置を確認することによって、自分の学習姿勢やその時の実力を客観視することが「集団」の効用です



おわりに

 「学習の個別化・個人化」が時代の趨勢ではありますが、僕は小学生・中学生のうちはある程度「集団」の中でもまれることが必要であると考えます。それは”切磋琢磨”などというきれいな言葉で表現できるものではなく、ときには泣きたくなるほどの悔しさや、絶望的な無力感を味わうことになるかもしれません。親としては子供にそんな気持ちを味わわせたくないというのが人情ではありますが、そんな気持ちをグッとわきに置いて、これから人間社会という「集団」の中で生きていくための経験としてとらえ、見守るべきだと思います。


 そして、他人との比較や競争をきっぱりと否定して、子供の中でのわずかな成長を、愛情を持った目でしっかり見定め、それを手放しで称賛してあげることが一番大切なことであり、良好な親子関係の醸成に寄与するものと考えます。

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